山崎育三郎が介護したのはなぜ?17歳で祖父母2人の介護を2年間続けた壮絶な理由

山崎育三郎が介護したのはなぜ?17歳で祖父母の介護を経験した理由と当時の壮絶な生活

ミュージカル俳優として活躍する山崎育三郎さんが、17歳の高校時代に「ヤングケアラー」として祖父母の介護を一人で経験していたことが大きな話題を呼んでいます。

山崎育三郎さんは高校2年生の17歳から約2年間、脳梗塞を患った父方の祖父母2人の介護を、たった一人で行っていました。

この介護生活は、両親の離婚によって家族が離散したことがきっかけでした。

個人的に、なぜ山崎さんほどの若さで介護を担うことになったのか、当時の家族はどうしていたのか、本当に詳しく知りたいと思っていました。

この記事では、山崎育三郎さんが17歳で祖父母の介護を始めた理由と、当時の壮絶な生活の実態について詳しく調査しました。

目次

山崎育三郎が17歳で介護を始めた理由と家族の事情

山崎育三郎 人生の転機と介護経験の年表
山崎育三郎 人生の転機と介護経験の年表

山崎育三郎さんが17歳という若さで祖父母の介護を一人で担うことになった背景には、複雑な家族の事情がありました。

山崎育三郎さんが介護を始めた理由は、高校2年生で留学中に両親が離婚し、家族全員が東京を離れてしまい、東京の実家に残ったのが山崎さんと祖父母だけになったからです。

それぞれの背景を詳しく見ていきましょう。

留学中の両親の離婚と家族の離散

山崎育三郎さんが米国留学から帰国した時、家族はバラバラになっていました。

山崎育三郎さんは高校2年生の2002年、1年間の米国留学に出ていました。しかし、その留学中に両親が離婚してしまったのです。(出典:スポニチ

帰国した山崎さんを待っていたのは、想像を超える状況でした。

父親は仕事で北海道へ転勤、母親は故郷の岡山へ戻り、長兄はアメリカの大学へ、次兄はニュージーランドへ、弟は甲子園を目指して香川県の尽誠学園へ進学していたのです。

東京の実家に残ったのは、父方の祖父母と17歳の山崎育三郎さんだけでした。

家族 離婚後の状況
父親 北海道へ転勤
母親 岡山へ帰郷
長兄 アメリカの大学へ
次兄 ニュージーランドへ
香川県の尽誠学園(野球)へ
山崎育三郎 東京の実家に残る

個人的に、家族全員が別々の道を歩む中で、17歳の山崎さんだけが東京に残ることになった状況を想像すると、本当に胸が痛みます。

しかも、その祖父母は2人とも脳梗塞の影響で介護が必要な状態だったのです。

母親の介護生活を見てきたからこそ決断できた

山崎育三郎さんが17歳で介護を決断できた理由には、母親の存在がありました。

実は、それまで十数年間、父の両親である祖父母の介護をほぼ1人で行ってきたのは母親だったのです。

転勤が多い父はなかなか東京におらず、母は介護をしながら働き、子育てもしてきました。(出典:毎日新聞

母が介護していた頃の状況はさらに厳しく、祖父はキングコングのように暴れ回ったり、物を壊したりすることがありました。

母は精神的にも肉体的にもかなり追い込まれて、留学中の山崎さんに「私、だめかもしれない」と電話してきたこともあったそうです。

山崎さんは、母の戦争のような日々を子供の頃からずっと見ていたのです。

そして親元を離れて米国で過ごす中で自信と自立心が生まれていたこともあり、祖父母の介護を決断しました。

当時の山崎さんは「子育てしながら介護もしてきた母に比べれば、数年間なら僕1人でも大変じゃない」と思っていたそうです。

17歳の少年が、母親のこれまでの苦労を理解し、自分が引き受けようと決断したことには、本当に頭が下がります。

山崎育三郎が介護した相手は父方の祖父母

山崎育三郎さんが介護したのは、父方の祖父母2人でした。

2人とも脳梗塞の影響で深刻な状態にあり、24時間の介護が必要だったのです。

それぞれの状態について詳しく見ていきます。

祖母は脳梗塞で右半身不随、車いす生活だった

山崎育三郎さんの祖母は、脳梗塞の影響で右半身不随になっており、車いす生活を送っていました。

右半身が動かないということは、日常生活のあらゆることに介助が必要な状態です。

食事、着替え、トイレ、入浴など、すべてのことを17歳の山崎さんが一人で支えていたのです。

車いすでの移動介助も、まだ体の小さい高校生にとっては相当な負担だったのではないかと思います。

祖父は認知症でうまくしゃべれなかった

山崎育三郎さんの祖父は、認知症になって上手く言葉が出ず、コミュニケーションが困難な状態でした。

脳梗塞の影響もあり、「おじいちゃんはうまくしゃべれなくて」という状況だったそうです。

認知症の症状として、母親が介護していた頃には暴れ回ったり、物を壊したりすることもあったといいます。

言葉でのコミュニケーションが取れない相手の介護は、何を求めているのか、どこが痛いのかを理解することも難しく、精神的な負担も大きかったはずです。

介護対象 症状・状態
祖母 脳梗塞で右半身不随、車いす生活
祖父 認知症、脳梗塞の影響で言葉が出にくい

山崎育三郎の介護生活の実態と精神的な変化

山崎育三郎さんの介護生活は、想像を絶する壮絶なものでした。

高校生の山崎さんは、学校に通いながら毎日の食事作りから夜中のトイレ介助まで、すべてを一人でこなしていたのです。

当時の生活について詳しく見ていきましょう。

24時間体制の介護生活の実態

山崎育三郎さんの介護生活は、24時間体制の過酷なものでした。

朝起きたら祖父母の朝食を作り、学校に行く前に食事介助を行う日々。

学校から帰ったら夕食の準備、そして夜中のトイレ介助なども含めた介護が続きました。

この介護生活は、山崎さんが19歳でミュージカル「レ・ミゼラブル」のオーディションに合格するまでの2〜3年間続いたとされています。

高校時代から大学1、2年の頃まで、最も多感な青春時代のほとんどを介護に費やしていたことになります。

友達と遊ぶ時間も、部活動に打ち込む時間も、恋愛をする時間も、すべて介護に捧げていたのです。

個人的に、同世代の友人たちが青春を謳歌している中で、一人で介護を続けていた山崎さんの孤独感を想像すると、本当に胸が詰まります。

「人生で一番しんどかった」精神的な変化

山崎育三郎さんは、介護生活について「学生の僕が2人を見るっていうその時間が人生で一番しんどかった」と胸の内を明かしています。

最も辛かったのは、祖父母との関係性の変化でした。

「ずっとやってると、おじいちゃんおばあちゃんも孫にやってもらっているっていう感覚もなくなってきて、お手伝いしてくれる人みたいな感じで」と山崎さんは振り返っています。

「ご飯作っても手でバンってはじかれたり、"ありがとう"とかも言わなくなるし」という状況だったそうです。

一生懸命作った食事を手で払いのけられる。感謝の言葉もなくなっていく。

愛する祖父母のために頑張っているのに、その努力が報われないと感じる瞬間は、17歳の少年にとってどれほど辛かったでしょうか。

当時は「ヤングケアラー」という言葉自体が一般的ではなく、山崎さん自身も後になって「今でいうヤングケアラーだった」と振り返っています。

自分の置かれた状況を客観視できず、誰にも相談できない孤独の中にいたのです。

ミュージカルへの夢が唯一の支えだった

山崎育三郎さんが介護生活を乗り越えられた理由は、ミュージカルへの夢があったからでした。

「自分の中で夢があったので、ミュージカルに出るっていう。それが支えだったんで」と山崎さんは語っています。

どんなに辛い介護の日々でも、いつか舞台に立つという夢を持ち続けることで、心が折れずに済んだのです。

そして19歳の時、ミュージカル「レ・ミゼラブル」のオーディションに合格します。

この合格が、介護生活に一つの区切りをつけるきっかけになったのではないでしょうか。

夢を諦めずに持ち続けたことが、山崎さんを救ったのだと感じます。

山崎育三郎の介護経験がその後のキャリアに与えた影響

山崎育三郎さんの介護経験は、その後のキャリアに大きな影響を与えました。

2021年3月の毎日新聞のインタビューで初めて詳しく語られ、2022年4月のNHK「SONGS」でも取り上げられるなど、ヤングケアラー問題への関心が高まる中で自身の経験を公にしたのです。

2025年8月には日本テレビ系『24時間テレビ49』のチャリティーパートナーとして、24時間医療ケアが必要な子どもと暮らすきょうだい児と向き合う企画に参加しました。

自身の経験を通じて、同じような境遇にある子どもたちの力になりたいという思いが伝わってきます。

山崎さんは「僕も実は10代の時に脳梗塞の祖父母と3人暮らしをしていて、今でいう『ヤングケアラー』だったんです」と明かし、自分の経験が誰かの役に立つならと発信を続けています。

介護という壮絶な経験が、人の痛みを理解し、共感する力を育てたのではないでしょうか。

それが俳優としての表現力にも深みを与えているのだと、私は感じています。

山崎育三郎さんの介護経験が公表されたのは2021年3月の毎日新聞インタビューが最初で、その後ヤングケアラー問題への社会的関心が高まる中で、自身の経験を積極的に語るようになりました。

山崎育三郎の介護経験への世間の反応

https://twitter.com/THETIME_TBS/status/2030188568103244248

山崎育三郎さんの介護経験が明らかになると、世間からは驚きと共感の声が多く寄せられました。

ネット上では「17歳で一人で介護なんて想像を絶する」「母親を助けたいという思いが素晴らしい」「こんな経験をしていたなんて知らなかった」といったコメントが多く見られます。

特に多かったのは「同じような境遇の子どもたちの希望になる」という意見で、山崎さんが自身の経験を公表したことで、ヤングケアラーの存在が広く知られるようになったことを評価する声が目立ちます。

一方で「なぜ家族の誰も助けなかったのか」という疑問の声もありました。

これについては、当時の家族それぞれに事情があり、誰かを責められる状況ではなかったと理解する声も多く見られます。

個人的には、山崎さんが自分の辛い経験を隠さずに語ることで、同じように苦しんでいる若い人たちに「一人じゃない」というメッセージを送っていることが素晴らしいと感じています。

2026年の現在も、ヤングケアラーの問題は社会的な課題として認識されており、山崎さんの発信は大きな意味を持ち続けています。

山崎育三郎の介護に関するよくある質問

山崎育三郎さんの介護経験について、多くの方が疑問に思うポイントをQ&A形式でまとめました。介護期間や家族の状況、当時の認識など、気になる点を詳しく解説します。

山崎育三郎が介護した期間はどのくらいですか?

山崎育三郎さんは約2〜3年間、一人で祖父母の介護を行いました。高校3年生の17歳から始まり、19歳でミュージカル「レ・ミゼラブル」のオーディションに合格するまで続いたとされており、夜中のトイレ介助なども含めた24時間体制の介護でした。

山崎育三郎の家族はなぜ誰も介護を手伝わなかったのですか?

両親の離婚により家族が離散したためです。父は北海道、母は岡山、兄たちは海外や地方の学校に進学しており、東京の実家に残ったのが山崎育三郎さんと祖父母だけでした。それぞれに事情があり、誰かを責められる状況ではなかったのです。

山崎育三郎はヤングケアラーだったと当時認識していましたか?

当時は「ヤングケアラー」という言葉自体が一般的ではなく、山崎育三郎さん自身も後になって「今でいうヤングケアラーだった」と振り返っています。当時は自分の置かれた状況を客観視できず、誰にも相談できない状態だったようです。

まとめ:山崎育三郎の介護経験が伝える大切なこと

山崎育三郎さんの介護経験は、ヤングケアラーという社会問題に光を当てる重要な証言となっています。17歳という若さで2年間もの間、一人で祖父母の介護を続けた経験は、決して美談だけでは語れない壮絶なものでした。

  • 両親の離婚で家族が離散し、東京に残されたのは山崎さんと祖父母だけだった
  • 脳梗塞と認知症を患った祖父母2人を24時間体制で介護した
  • 「人生で一番しんどかった」と語るほど精神的にも追い詰められていた
  • ミュージカルへの夢が唯一の支えとなり乗り越えることができた
  • 自身の経験を公表し、同じ境遇の子どもたちに寄り添う活動を続けている

山崎育三郎さんが自分の辛い経験を語り続けることで、多くのヤングケアラーたちが「自分だけじゃない」と気づくきっかけになっているのではないでしょうか。これからも俳優として、そして経験者として、大切なメッセージを発信し続けてほしいと思います。

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